障がい者登山の会 しろうまの会

しろうまの会歴史を紹介

 
  

しろうまの会のはじまり

1988年 東京・板橋区でアジアからの労働者を支援するグループの100名規模のイベントに、 車いすの参加者2名が参加。他の参加者とともに南ア前衛の入笠山の頂上に立った。ほんの30~40分 の行程であったが、車いすごと皆で持ち上げ登った 障害者は「初めて山に登った。とても景色がき れいだ」と言い、サポートした者もそれを聞いて感動した。そのうちの一人(のちの会の発起人)が、 車椅子障害者の一人に「今度はもっときれいな所にいこう 白馬岳なら行けるんじゃないか」と誘った。
 その年の9月、 実行のために核になる人間を作ることがまず必要と考え、4,5名に個別に計画を 説く。その後10名程で1回目の会議を行った。「最低3人が必死になれぱなんとかやれるよ」という声に対 して、「いやもっと多くの人間がこれに賭けるようでなけれぱ実行は困難」という意見が出される。 発起人が初代代表となり2,3回目ぐらいから「白馬の会」と名付けることとなる。

しろうまの会の歴史

1988年

11月
伊豆ケ岳 トレーニングのための日帰りハイキングを行う。18名参加。車いすの 障害者2名。登山いすを初めて使用する。

1989年

3月
 会発足のきっかけとなった車椅子障害者が退会する。発起人は「発足の きっかけとなった障害者が抜けた白馬の会は考えられない。会を解散しよう」というが 「1メンパーが抜けただけではないか。そんなことでなぜ解散となるのか」という声が複数から出て 継続することとなる。
5月
御岳 障害者は車いす2名と自立歩行可能2名。障害者(自立歩行)の 1名の動悸がはげしくなって全体と別れて、その後の行動を中止する。このことについて「どんな簡単な 八イキングであろうと命にかかわることはある。障害者の身体はもろい。忘れてはならないことと実感した。 その障害者は、自分の意志で目分の判断でできる、大丈夫と思ったから来た。ハイキングというものがこのよう なものだとは知らなかった」と言っていた。一般的に障害者はハイキングや登山をしたことがない。したことが ないこと、未知のことについて判断を求められたとしても、正しい判断を下すことは難しいのだなあと思った。 夏のイベントは白馬以外の山にしようと心の中で決めた」と代表は機関紙に書いている。

初めて会の活動が新聞に掲載され、多数加入。

6月
雲取山 障害者を交えて、泊りがけで山行を体験してないとだめたということで実行。 実際は障害者は参加できず、障害を持たない者だけのトレーニングとなる。

代表の判断でこの年の白馬岳挑戦を見送り、登山時間がコースタイムで1時間程の乗鞍岳に変更。 理由は未だ安全性に確信が持てないし、参加希望の障害者とできるだけ一緒に行きたいということであった。

7月
乗鞍岳へ4名で下見。初めてイベンとリーダーを設ける。
日曜日に乗鞍岳登山説明会を開く。新聞応寡の参加者と顔合わせ。

8月
乗鞍岳 全28名。障害者は車いす3名と自立歩行可能1名。スタッフ10名。登山いすの 担ぎ手数名。キャンプが一日あったせいで前目まで、準備に奔走したスタッフは10名程。本隊は電車バスなど通常の 交通機関を乗り継ぎ、山小屋まで雪渓を登って1時間。そこで泊まって、次の日、山頂まで1時間半。北アルプスの山並み がしっかり見えて、車いすの障書者の一人は「お~!」。下りも1時間半。その日は中腹の乗鞍高原キャンプ場に宿泊。 夜は大宴会。
1回限りと考えていた代表の意図を越えて、秋以降も盛り上がり続けて、白馬への跳戦の具体化にかかる。            

11月
陣馬山

  

1990年

1月
代表交代。その他のスタッフ、副代表、機関紙、書記、各1名。パックアップ3名の役員を決める。

4月
高水山

5月
夏に白馬岳に登ることを決定。
車いすの障害者を1名とすることとするが、何人担ぎ手がいれぱ安全が確保できるかなど、安全性をどの程度 つきつめて考えるかで紛糾。中止派と案行派の2つに別れて、夜中まで何度も話し合う。コースについても、 前年に下見はしていたが、7月再度の下見の結果、当初予定していた雪渓ルートが危険であることから、 前夜発2泊3日で蓮華温泉からのルートに変更。危険な箇所があるが、そこに関しては参加者で見て、 だめとなれば引き返すことを確認した上で、実行することとなる。

8月
白馬岳 念願の白馬岳挑戦。初めて貸し切りバス使用。以下代表の書いた反省会 資料より抜粋
本番の山行としては天候も良く、完璧であったが、稜線上の一番景色のきれいな所で、登山いすの上から痕息が聞 こえていた。本番前の紛糾を含めてどう考えるか重たい課題を突きつけられた。
事前の議論はこのようなものだった。「障害者を連れて行くとまでは言わないが、山のこともわからず、自分で安全 を確保しようがない障害者と一緒に行く以上、障害を持っていない側が絶対の責任を負わざるをえない。担ぎ手が最低 何人確保できないと行かないということは決めるおくべきだ」という意見に対して、「この会は旅行会社ではないのだ から、参加が何人でも、その力の範囲内で全力を尽くして、もうこれ以上は無理という所で引き返せぱいい。それは決 して無茶をするということではなく、その時点で冷静で的確な判断の上行動すればいい。チャレンジこそ大事なんだ」 というリーダーを中心とする意見が対立していた。しかし、双方、「障害者を連れて行くということではない」と表向き は言いながら、「連れて行く」者としての連れて行き方のイメージの違いでの対立でしかなかったと考えられる。自己満 足の仕方の違いでしかないということだ。それが証拠に、障害を持つ者は事前の議論にもまったく参加しなかったし、 障害のない側が意見を聞いてみようともしなかった。当日の居眠りはまさに自然な帰結であったのだ。

一応の目標は達したので解散という意見もあったが、折角できた人間関係を保つという理由で続けることになる。 続けるのなら何をやるのか。「障害者が望んでいない中で自己満足的に3000m級の山登りをまた続ければ、また今回の 山行の二の舞になる。少なくとも、自ら高い山に行きたいという障害者が現れるまでは、人間関係を継続するということ で、年に2回ほど危険でもなく労力も時間も必要ない日帰りハイキングなどをやっていれぱいいのではないか。 ほんとうに高い山に行きたいという人が出てきた時に、そのための体制づくりにかかればいいのではないか」 というような活動方針となる。代表を交代。

  

1991年

5月
御岳の河原でバーベキュー、沢井まで川沿いハイク。

9月
大菩薩峠 1泊くらいで行きたいという希望で計画。初参加の障害者 は機関紙に「『私にも周りの人達の手を借りれば山に登ることができる』ということがわかり、山に登 ったということで、ほんの少し自分に目信がついたような気がします」と書いた。

12月
高尾山

  

1992年

3月
代表交代
5月
巾着田 高麗駅からハイキング。河原でバーベキュー。
6月
障害を持っていない者達が、夏は楽なキャンプかなんかにしようよというのに対して、障害者の ひとりがどうしても富士山に行きたいと言って譲らない。それにひきづられて具体化にかかる。 車椅子障害者は当初どっちでもいいということだったので、今回は車いすの障害者はなしと最初から 決定した。
下見は7月初め。新聞に募集が掲載され多くの応募が来たが、貸し切りバスの人数とスタッフの力量から 人数を絞ることとし、20名ほどは断る。

8月
富士山 全体で23名。スタッフ8-9名。結果的に頂上に行ったが、 その時の状況(天候、体調、時問的制約など)によって頂上にはこだわらないという確認をしていた。 一時風雨強く傘が折れるほどで、落石も怖かったが、風雨の中ブルトーザー道を下るというズルもしたため、 ルート的には何も問題はなく、成功した。最初から最後まで言いだしっぺの障害者は意志を貫き、 他のメンパーはそれに突き動かされた山行だった。
10月
宝登山 ロープウエーで宝登山へ夜は長瀞キャンプ場のパンガローで宿泊。

日本一高い富士山の登頂という目的も果たした」という理由で、解散の話が忘年会で持ち上がり、 会の意義などが話し合われた。障害者からは「こんな山登りのような遊びごとをやっていても、 障害者問題の解決にはならない」や「この会がなくなってしまったら私達は山へは行かれなくなってしまう」 などの声が出る。結局結論は出ず、一応解散はまのがれる。

  

1993年

2月
日和田山 参加者はこれまでの最低の9名。

日本経済新聞夕刊に紹介記事掲載
ボランテイアガイド(ほんの木出版) に会の紹介が掲載される。

4月
再び解散の論議がされるが、結論は出ず会長を交代し存続することになる。存続させるためには 「富士山の参加者のリピーターがほとんどいなかったので、定着させる手段を考えた方が良い」との意見などが出る。 代表が初の障害者に。「富士山では支えてもらったので、今度は支える側に回りたい」と就任の弁。
この間日経新聞、ボランティアの本に紹介されたが、新規参加者はほとんどなく、富士山以前の創立当時のメンバーも 殆ど抜けてしまい例会も参加者5名以下という日が続く。毎週だった例会を月2回に変更。

9月
縞枯山 夏山だけは続けようと八ケ岳を検討。区報、新聞でボランティアを募集して 新たに3名が加わったがサポートの数が足りず、以前参加した人や友人などに声をかけてやっと障害者3名(車イス2名) に対しサポートが10名という体制となった。蓼科へ下見に行ったが報告の結果難しく、最終的に縞枯山へ行くことに。 実際の登山は登山イスは段差が大きく使えず、途中で放棄し障害者をおんぶして登った。小屋の人の話で、「縞枯山は 段差があり大変」と聞いて止めると言った女性組が同じく難しいと諦めていた北横岳の山頂近くまで登ってしまった。
前年の富士山登頂後、以前からの参加者のうち障害者を除くほとんどが退会してしまい最も低迷していた年 で、結局山行は年間2回にとどまる。   

  

1994年

1月
高尾山 2度目の高尾山。参加者はかろうじて2桁の11名(車イス1名)

人集めのためにチラシを作成しボランティアセンターなどに置いてもらう。同時に「白馬の会」から 「しろうまの会」に改名。チラシに「障害者登山サークル」と名付けて目的を登山とし、趣旨も載せる。 前年の準備不足の経験から早めに夏山の準備に取り掛かる。従来の登山イスを使った登山では限界もあった ため、 背負子を購入し改造にかかる。山も前年は中途半端に終わった感もありそれなりにの山と考え、 個人的に何度か登った ことがあり、危険な場所もすくなく景観も良い蝶ケ岳に決めた。

5月
産経新聞多摩版に夏山募集と紹介 記事掲載

6月
日向山 この時の写真を使って読売新聞の東京版 に夏山の募集をした。会の活動内容も紹介される。

しかし一向に人は集まらず「高い山にこだわらず、上高地を散策する程度でもよいのでは」という意見もでる。 「散策程度であれば他のサークルでも出来る。しろうまの会は「山の会」としたのに、山にこだわりたい。 それに高い山にはそれなりの魅力がありそれを味わってもらうためにもこだわりたい。最初からあきらめては なにも ならない。」と意見で計画を続行する。

8月
蝶ヶ岳 読売新聞の募集もあまり効果なく、出発週問前まで参加者は12名、 障害者3名うち車イス1名。半ぱ登頂をあきらめかけた時に朝日新聞夕刊に募集記事が載り、出発2日前に新に 6名が加わったが障害者を除くと経験者は3名。の昼のニュースで参加者へのインタビューや出発の模様が放映 される。1グループは時間切れで途中下山するなど色々なことがあったが、山頂の展望も素晴らしく参加者の ほとんどがその後も参加してくれるというほど良い山行だった。この時の印象を参加者が歌にした。 「我ら、しろうま」打ち上げで披露。初めて背負子で車イスの障害者を背負って 登頂した。

11月
弁天山 東久留米ひまわり号関連の人たちも参加して久々の20 名以上の22名。   

1995年

3月
御岳山 雪の舞う中車椅子を押したまま頂上まで登る。

4月 しろうまニュース 第1号発行

5月
城ケ島 山ではなく海岸沿をハイキング。

夏山は爺ケ岳に決め、朝日新聞の東京版に会の紹介の記事と夏山の募集が載る。 この年、阪神淡路大震災がありボランティアブームなる言葉も生まれる影響もあり、大反響で1週間でバスの限界の 50名を超え夏山を締切。締切った後の希望者には、10月の山行の優先参加を約束。予定の爺ケ岳は直前の下見の 結果、雪渓のトラパースが危険個所があり、行き先を変更するかで決行かで会の中で紛糾。結局、参加者の4分の3 が、初参加で安全確保がもてないという理由で出発。1週間前にコース立山に変更。新たな障害者も数人加わる。 アルペンルートで立山へ。室堂山を登る。2泊目は木崎湖畔でキャンプ。流れ星を探したり、初めて寝袋で寝た という人もおり初参加の人たちも結果的には満足してたようだ。これまで最高の43名の参加。

10月
筑波山 夏山締切後に申し込みの人を中心に組んだが、雨で登山は出来ず。
暮らし創造マガジン「サーナ&らいふ」に紹介される

11月
金時山 1グループが下山時にルートを聞違えるも無事下山。

1996年

年間山行6回
この年以降の山行の詳細は、 山行記録をご覧ください。 

昨年より急に参加者の人数が増えたことにより、会の運営について臨時の話会いが行われる。「これ以上人を増や すことは「一緒に山を楽しむ」ことが難しく、安全性の面でも問題があり事故があってからでは遅い」との意見に対 し、「会の趣旨でもある多くの人に山の楽しさを知ってもらう」ためには今後も募集や広報を続ける。安全性や 「一緒に山を楽しむ」ことは、少人数のグループに分けて登山しその中で可能である」という意見で落着いた。

これ以降はトピックスのみ掲載します。

5月
日の出山 青梅ハンディキャップスカウトと合同ハイキング。

7月
バリアフリーライフを応援する生活雑誌「WE’LL」 に紹介される

8月
仙丈岳 富士山以来の三干メートル峰に全員登頂 馬の背ヒュッテで この模様を見てた登山者が後に入会。

11月
三ツ峠 夏山に参加出来なかった人のためにと一泊での山行。

1997年

年間山行8回

6月
ホームページ開設

10月
夏山(燕岳)の記事が「山と渓谷」11月号に載る。

12月
岩殿山 初めてクサリ場に挑戦 ザイルで確保して通過。

初めて文集を作成。

1998年

年間山行10回

4月
高尾山 お花見山行 しろうまの会 過去最高の参加55名

6月
日本経済新聞に会の紹介が載る

8月
白馬岳 会の創立10周年を記念して再ぴ白馬岳へ。夏山では最高の51名が参加

創立記念10周年文集を作成

1999年

このとしより月1回の定例山行を行うようになる

3月
「わたしの一名山」(双葉社)に98年の白馬岳登山の投稿が掲載される
「山と渓谷」4月号、「障害者の山登り」で座談会と会のが掲載される

4月
共同通信社配信新聞記事での掲載(京都新聞、河北新報ほか)

5月
倉岳山 初めてのテレビ同行取材
  福祉系月刊誌「ホスピタウン」6月号に活動紹介

倉岳山の山行でグループによりかなり差が出て、グループによっては夕暮れ時の下山となる。 このことから反省会の中で「山行は山によってランクづけをして、ランクによって参加する障害の 程度を分けないと今後も同じような問題が出る」との意見が出る。「それはある意味制限を設ける ということになり会の趣旨に反する。あくまで同じ目的を目指しその結果として目的地まで行けなかったら 仕方ないが、あくまで一緒の目標を目指すことに意義がある。」との意見で今までひとまず制限は 設けないことなる。

8月
「旅の手帳」9月号に活動紹介記事掲載される。

9月

5月の倉岳山登山の様子がTV東京「チャレンジ! 障害者たちの夏」で放送される

10月
雑誌「Walking」(秋冬号)に活動紹介記事掲載される

2000年

6月
大菩薩峠テレビ同行取材

7月
TV大阪「ボランティア21」で6月の大菩薩の登山の模様が放送される (スタジオでゲスト出演)

2000年記念文集を作成

2001年