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1988年 |
8月 9月 11月 |
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1989年 |
3月 5月 初めて会の活動が新聞に掲載され、多数加入。 6月 代表の判断でこの年の白馬岳挑戦を見送り、登山時間がコースタイムで1時間程の乗鞍岳に変更。理由は未だ安全性に確信が持てないし、参加希望の障害者とできるだけ一緒に行きたいということであった。 7月 8月 11月 |
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1990年 |
1月 4月 5月 車いすの障害者を1名とすることとするが、何人担ぎ手がいれぱ安全が確保できるかなど、安全性をどの程度つきつめて考えるかで紛糾。中止派と案行派の2つに別れて、夜中まで何度も話し合う。コースについても、前年に下見はしていたが、7月再度の下見の結果、当初予定していた雪渓ルートが危険であることから、前夜発2泊3日で蓮華温泉からのルートに変更。危険な箇所があるが、そこに関しては参加者で見て、だめとなれば引き返すことを確認した上で、実行することとなる。 8月 本番の山行としては天候も良く、完璧であったが、稜線上の一番景色のきれいな所で、登山いすの上から痕息が聞こえていた。本番前の紛糾を含めてどう考えるか重たい課題を突きつけられた。 事前の議論はこのようなものだった。「障害者を連れて行くとまでは言わないが、山のこともわからず、自分で安全を確保しようがない障害者と一緒に行く以上、障害を持っていない側が絶対の責任を負わざるをえない。担ぎ手が最低何人確保できないと行かないということは決めるおくべきだ」という意見に対して、「この会は旅行会社ではないのだから、参加が何人でも、その力の範囲内で全力を尽くして、もうこれ以上は無理という所で引き返せぱいい。それは決して無茶をするということではなく、その時点で冷静で的確な判断の上行動すればいい。チャレンジこそ大事なんだ」というリーダーを中心とする意見が対立していた。しかし、双方、「障害者を連れて行くということではない」と表向きは言いながら、「連れて行く」者としての連れて行き方のイメージの違いでの対立でしかなかったと考えられる。自己満足の仕方の違いでしかないということだ。それが証拠に、障害を持つ者は事前の議論にもまったく参加しなかったし、障害のない側が意見を聞いてみようともしなかった。当日の居眠りはまさに自然な帰結であったのだ。 一応の目標は達したので解散という意見もあったが、折角できた人間関係を保つという理由で続けることになる。続けるのなら何をやるのか。「障害者が望んでいない中で自己満足的に3000m級の山登りをまた続ければ、また今回の山行の二の舞になる。少なくとも、自ら高い山に行きたいという障害者が現れるまでは、人間関係を継続するということで、年に2回ほど危険でもなく労力も時間も必要ない日帰りハイキングなどをやっていれぱいいのではないか。ほんとうに高い山に行きたいという人が出てきた時に、そのための体制づくりにかかればいいのではないか」というような活動方針となる。代表を交代。 |
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1991年 |
5月 9月 12月 |
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1992年 |
3月 5月 6月 下見は7月初め。新聞に募集が掲載され多くの応募が来たが、貸し切りバスの人数とスタッフの力量から人数を絞ることとし、20名ほどは断る 8月 10月 「日本一高い富士山の登頂という目的も果たした」という理由で、解散の話が忘年会で持ち上がり、会の意義などが話し合われた。障害者からは「こんな山登りのような遊びごとをやっていても、障害者問題の解決にはならない」や「この会がなくなってしまったら私達は山へは行かれなくなってしまう」などの声が出る。結局結論は出ず、一応解散はまのがれる。 |
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1993年 |
2月 日本経済新聞夕刊に紹介記事掲載 4月
9月 前年の富士山登頂後、以前からの参加者のうち障害者を除くほとんどが退会してしまい最も低迷していた年で、結局山行は年間2回にとどまる |
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1994年 |
1月 人集めのためにチラシを作成しボランティアセンターなどに置いてもらう。同時に「白馬の会」から「しろうまの会」に改名。チラシに「障害者登山サークル」と名付けて目的を登山とし、趣旨も載せる。 5月 6月 8月 11月 |
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1995年 |
3月
4月 夏山は爺ケ岳に決め、朝日新聞の東京版に会の紹介の記事と夏山の募集が載る。この年、阪神淡路大震災がありボランティアブームなる言葉も生まれる影響もあり、大反響で1週間でバスの限界の50名を超え夏山を締切。締切った後の希望者には、10月の山行の優先参加を約束。予定の爺ケ岳は直前の下見の結果、雪渓のトラパースが危険個所があり、行き先を変更するかで決行かで会の中で紛糾。結局、参加者の4分の3が、初参加で安全確保がもてないという理由で出発2週間前にコース立山に変更。新たな障害者も数人加わる。 8月 10月 11月 |
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1996年 |
年間山行6回 この年以降の山行の詳細は、山行記録をご覧ください。 昨年より急に参加者の人数が増えたことにより、会の運営について臨時の話会いが行われる。「これ以上人を増やすことは「一緒に山を楽しむ」ことが難しく、安全性の面でも問題があり事故があってからでは遅い」との意見に対し、「会の趣旨でもある多くの人に山の楽しさを知ってもらう」ためには今後も募集や広報を続ける。安全性や「一緒に山を楽しむ」ことは、少人数のグループに分けて登山しその中で可能である」という意見で落着いた。 これ以降はトピックスのみ掲載します。 |
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1997年 |
年間山行8回 10月
12月 初めて文集を作成 |
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1998年 |
年間山行10回 創立10周年の記念文集作成 |
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1999年 |
この年より月1回の定例山行を行う 3月 5月 倉岳山の山行でグループによりかなり差が出て、グループによっては夕暮れ時の下山となる。このことから反省会の中で「山行は山によってランクづけをして、ランクによって参加する障害の程度を分けないと今後も同じような問題が出る」との意見が出る。「それはある意味制限を設けるということになり会の趣旨に反する。あくまで同じ目的を目指しその結果として目的地まで行けなかったら仕方ないが、あくまで一緒の目標を目指すことに意義がある。」との意見で今までひとまず制限は設けないことなる。 8月 9月 10月 |
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2000年 |
6月 |
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2001年 |
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2002年 |
7月 8月 9月 10月 12月 |
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2003年 |
7月 9月 |